パートナー

今朝の気温はマイナス6度。快晴。
道路も草も白く凍り、太陽の光を反射してとてもきれいな風景です。
きょうは、次男の25歳の誕生日、そして現在のパートナーと出会った記念日でもあります。
私が二度の離婚を体験し、そして現在のパートナーが3人目だということをこのブログでもたびたび書いてきたということが影響してか、夫婦についての相談をよく受けます。
ここで改めて「パートナー」について書いてみようと思います。
私は現在のパートナーと出会うまで「夫婦というのはどちらかの我慢の上に成り立っているものだ」と確信してました。そしてその我慢の限界が離婚だと。
「『我慢』は人間関係に必要不可欠なものだ」という人もいます。
「いい人間関係はどちらもが少しずつ我慢して、それで成り立つ」と言った人もいました。
けれど、果たしてそれが真の人間関係なのでしょうか?
相手の嫌な部分を見てみぬふりをしたり、自分の本音を隠し続けることが「包容力」でしょうか?
明らかにこれは「包容力」ではなく「我慢」であり騙し合いの関係です。
ではなぜ、「我慢」をしてまでその関係を保たなければならないのか。
それは、その関係を保つことで「得する」事があるからです。
「得する」内容は、人によってそれぞれでしょう。「お金」の人もいれば「見栄や世間体」の人もいるでしょう。どちらにしろ相手の存在が自分の「得する」事につながるからです。だから、手離せないのです。だから、本音を言わず我慢するのです。
私も夫も二度の離婚経験者です。
もう我慢しあう関係はこりごりでした。
ここに来て、我慢するくらいなら、一人で生きるほうがよっぽど楽です。
といって、お互いがわがまま放題にするということではなく、「違和感」や「不快感」を感じたら、包み隠さず話します。それから話し合いの始まりです。
どちらかが我慢するような結論を出すのではなく、お互いにもっと気持ちよくなる方法を考え抜きます。不思議なことにその「第3の道」は必ず発見されるのです。
ただ、この新しい道が見つかるまで、2日でも3日でも、お互いをさらけ出して話し合わなければなりません。理解しあえる結論が出なかった場合は、別れるという覚悟を持っての真剣な話し合いです。自分自身でさえ見たくない自分の醜い部分も利己的な部分も、表面に出てきます。
けれど、その決して楽しいとはいえない作業の中から、居心地の良い世界が姿を現し始めるのです。
私と夫はそのようにして、関係を育ててきました。
私にとって夫は、最高の親友であり、厳しい教師でもあるのです。

そして、二人に起こる事は共有し、二人で解決しています。
親のことも子供のことも、その他あらゆる人間関係に対しても同様です。
現在は、夫婦二人で遠い異国の地にいますので、子供や親のことでの問題は無事卒業できたようで、最近の日常は至って穏やかなのですが、フィンランド文化研究所の会員がかなり増えてきたこともあって、また新たな人間関係が生まれつつあります。
フィンランド人との関係は、わたしたちと同じ価値観の人がほとんどなので、全く問題なくスムーズに流れていくのですが、本当の目的を隠し、共感していないのに共感しているようなふりで近づいてくる一部の日本人とは、問題が起こることが時々あります。
そういうときのわたし達の対処方法は、ひとつの身体の右手と左手と言うか、右目と左目と言うか・・・簡単には説明しきれないのですが、例えば夫は右脳人間で、私は左脳人間です。彼が問題の全体を見て「違和感」なり「拒絶」なりを察知します。私はそういう点では鈍感で相手の言葉を丸々信用してしまうことが多く、相手の打算や利用を鋭く感知できないようです。ただ感覚が鈍い反面、相手の言った言葉の矛盾点だけははっきりと発見する事は得意です。
そのときそのときの問題点を、あらゆる角度から観察し、二人で話し合って、そして実際に対処するときに、今回は「右手」が適当だとか、「左手」の出番だね、という感じになります。
ひとつの結論を出しても、相手への表現方法が違うので、そこは適材適所それぞれの場面によって、出番が決まります。

日本にいる頃、私たちを見て「仲がいいねぇ」と感心されたことが良くありました。でも、フィンランドに来たら、それは当たり前で、どこの夫婦も、中年も、老年も、一緒に買い物に来ていたり、散歩したり・・・ それはそれは仲がいいのです。
フィンランドは、離婚率が高いので、離婚をせずに夫婦を続けている人たちは、「得する」ために相手と一緒にいるのではなく、「いい関係を育てあえる」相手だから一緒にいるのです。
果たしてフィンランド人の夫婦の間でどのような話し合いが持たれているのか、私にはわかりませんが、フィンランドは男女とも精神的にも経済的にもしっかり自立していますので、相手を利用する必要がないことだけは確かです。だから、わかり合えない、育てあえない相手とは、一緒にいる必要がないのでしょう。
自立した人間同士だから出来る人間関係だと思います。

私は「夫婦は人生を生きる上の核」だと思っています。
この『核』がゆがむ事は、あらゆる方面に影響が現れます。
そして、さまざまな方面に害を振りまきます。
一番の被害者は子供。
経済的な安定はあるかもしれませんが、さめた関係の中で育つ事は「何が正しくて、何が間違っているのか」を教えられずに「混乱」と「不安」だけがのしかかります。
そしてそればかりか、「このかわいそうな親を、自分が幸せにしなければならない」という重荷を背負わされます。
さめた夫婦をやっていると、親は(特に母親は)子供を所有物化し、自分の存在意義を子供に見出し、子供が自立した大人になる事を拒み、自分がいなくては生きられない子を育てようとします。離婚できないのは、自分が経済的安定を手放したくないという欲深さからきているのに、「子供のために生きる良い母親」という自己欺瞞で自分を正当化します。
もちろん、離婚したとしても「安定と所有」を目的としたこの考え方を変えない限り、同じ結果です。
離婚してもしな
くても、子供が自立されては困る親は、大切なことを子供に教えようとしません。そもそも、何が大切なことなのかを親自身が考えようとしていないのですから、教えられるわけがないのですが。
子供が自立した大人になったりしたら、自分を見捨てるのではないかと不安におびえ、自分から離れないようご機嫌取りに大忙しです。
自立できていない親たちは、周りの動向によって自分の幸せが決まると思い込んでいます。だから、人生がうまくいかないと、周りを恨み、運命を呪うだけで、最大の問題点である自分自身を振り返ろうとしません。
何を学ぶために起きているのか、何に気づくべきなのか・・・
自分自身を見つめる事は誰にとっても、最大のテーマだと思います。
それなくして、人生に生きる意味は無いとさえ思います。

フィンランド人がよく言う言葉があります。
「Matka jatkuu(旅は続く)」
「良い旅を」でも「気をつけて」でもなく、ただ「旅は続く」。
とてもフィンランド人らしいと、フィンランド在住の日本人がブログに書かれていました。
一言で人生を語っている深い言葉だと、最近の私の一番のお気に入りです。
私はこの言葉を、人を恨んでも、人のせいにしても、何も解決せず、自分の人生は
ただ「続く」と、理解しています。
私はこの言葉を知ってから、よくメールの最後にこの言葉を使っています。

では、今日はこの辺りで終わりにします。
Matka jatkuu!

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マトカさんへ

 「パートナーが絶対あなたの味方だって知ってる?」というご質問をいただきました。
もちろん知っています。
現在のパートナーほど理解し合い、共感し合える人はいません。
最高の伴侶だと思っていますよ。
そのことは、いつも書いていると思っているのですが、なぜこのような質問をされたのか意味不明なのですが・・・、何か誤解を生むような発言をしてしまったでしょうか。
携帯からの投稿で、発信者の情報は何も書かれていませんでしたので、このような方法で返答させていただきました。

理解するということ

<style=”font-size:medium;”>今朝の気温はマイナス6度。
この冬一番の冷え込みでした。お昼前から雪が降り始め、今(午後4時)はもう5~6cm積もりました。去年よりかなり早い初雪です。
きのう、ひょんなことから岸田智史の「重いつばさ」を聞きました。
たぶん30年以上前の唄です。
その頃私は、27歳くらいだったと思うのですが、最初の夫との離婚を真剣に考えた時期でした。ただ、まだ恥ずかしながら私自身の自我が目覚める前で、離婚すれば、これで私の人生終わりだとまで思いつめていました。一生、表街道を歩けない、親の後ろに隠れて生きなければならないなんて思っていた時期です。そのときにこの「重いつばさ」を聞きました。
その歌の中に「どうしようもない昨日を持ってしまった・・・、どうにも出来ない傷を負ってしまった・・・」という歌詞があります。
私はその部分だけに、やけに感動し、「そうだ、そうなんだ」と自分を哀れんでいました。
その後の「どうにかできる明日が明日があるさ」という部分はまったく聞かずに・・・
今、改めてこの歌を聴いてみると、なんと希望のある歌なんでしょう!!
しかも「おとなしい羊の群れから飛び出したいのだ・・・ うつむいた仲間と別れて走りたいのだ・・・」
まさに私の人生を歌っていると思いました。

でも、歌を聴いている状況を30年以上過ぎた今でも覚えているのですから、歌詞は全部知っていたはずなのに、当時の私はまったく聞く耳を持っていなかったのです。

ここ数年、私の言っていることが相手に通じていないといういらだたしさを、何度も経験しています。
自分の問題点を言われると、一瞬にして防御体制に入り、自分は悪くないと言い訳ばかりし、相手の言う事をまったく吟味しようとしない。
そして、責められた、傷つけられたと自分を悲劇のヒロインに仕立て上げる。
といって、純粋なわけではなく欲のためのずるさや、相手を利用するための知恵だけは十分に備えているのですから、全く始末が悪い。
「重いつばさ」を聞いたとき、全く聞く耳を持っていなかった未熟な私を思い出し、まさにこれと同じだと思いました。
ただ、このときの私はまだ、20代半ばですが、
私が相手にしているのは30代、40代の立派な大人で、しかも子供を教育していかなければならない世代です。
これではまともな子供を育てられるわけがないと、情けなくなります。
「フィンランドメソッド入門」に書いてありましたが、フィンランドの教育は小学校低学年からグローバルコミュニケーション力を養い、物事を深く考え議論する力を身につけます。それに引き換えペーパーテストの点数だけを重んじ、競争ばかりをさせて大切なことを教えていない日本の教育は、このような物事を深く考えようとせず、自己防衛と欲ばかりに走る大人たちを作り続けているのです。
まぁ、国のトップである国会の討論を見ても、権力を奪い守るためだけに明け暮れ、肝心の政策や方針はそっちのけの状態なのですから、仕方がないといえば仕方がないのですが・・・
20代半ばの頃に全く考える力を持っていなかった私に、最初に考えることを教えてくれたのが、29歳のときに知り合ったH.Uさんです。
彼女は私のすることなすことに「なぜ?」「どうして?」と問うてきました。
私はそれまで当たり前にしていると思っていたことを、ひとつひとつ考えざるを得なくなりました。
そして、現在のパートナー。
一緒に暮らして丸18年になりますが、彼は鋭い洞察力を持っていて、私の自分勝手なところや、相手を利用するような部分が見えると、容赦なくがんがん指摘してきます。
言われたときは、「そんなつもりじゃない」と反発したりするのですが、
じっくり考えてみると、自分の「醜さ」や「ずるさ」をどこかで知っていたような気もします。
私の60年の人生の中で、H.Uさんと現在のパートナー、この二人が私を大きく変化させた「重大な鍵」だったといえます。
ただ、私の言うことを理解せず、悲劇のヒロインを装ってしまった人たちに対して、私が「重大な鍵」の役を担う運命ではなかったということなのでしょう。
できれば、その人たちの人生にも「重大な鍵」に出会う運命がありますように、
そして「重大な鍵」に出会ったときは、それと気づくチャンスを逃しませんように、
祈るばかりです。

追伸:岸田智史の「重いつばさ」の歌詞は、以下のサイトに出ています。
いい歌ですよ。
歌詞;http://www.uta-net.com/song/1079/
動画:http://www.youtube.com/watch?v=5hsoN31EK90

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