お客様は神様です

 先日、夫がフィンランドの自動車免許を取得するために、現在持っている日本の免許証を英語に翻訳したものが必要になり、在フィンランド日本大使館に問い合わせのメールを出したところ、すぐに返答の電話がかかってきました。
私たちはフィンランド語はもちろん、英語もいまいちな状態なので、ほとんど電話はかかってきません。宅配が郵便局に届いたとか、頼んでおいた工具の修理ができたとかの通知は、できる限りテキストメッセージ(フィンランドでは携帯電話用のメールのようなもの)でお願いしています。
と、いうわけで、携帯の電話のベルが鳴るとびっくりすると同時に、またフィンランド語がぺらぺらと聞こえてきたらどうしようかなぁと、電話に出るのを躊躇してしまいます。
でも、仕方がないので出てみると、久しぶりの日本語が聞こえてきました。
「○○様でいらっしゃいますか。こちら在フィンランド日本大使館の△△と申しますが、ただ今、メールでお問い合わせをいただきまして、そのお返事にと電話を差し上げているのですが、お忙しいところ申し訳ございません。ご主人様はご在宅でいらっしゃいますか・・・」と本当に驚くほど丁寧で、
日本大使館と一国民の関係が売り手と買い手の関係ではないけれど、なぜかお客様扱いの対応に、ああ、日本の臭いだと思ってしまいました。
日本語の勉強のために日本に来ていたフィンランド人が、「どうしてお店の人はお客に敬語を使うのですか?」と言っていたのを思い出します。そのときは私も日本にいて日本の「お客様」という意識については異常だとは感じてはいたけれど、敬語を使っているというところにまだ焦点を当てていませんでした。でもよく考えてみれば、丁寧語で十分のはずです。敬語にする必要はありません。
そのフィンランド人に指摘されるまで、気がつかなかったということは、私もお客の立場のときは、知らず知らず横柄な態度をとっていたのだと思います。
「儲けさせてやっているのに、その態度はなんだ!」と露骨に怒っている人を見たこともあります。
『儲けさせてやっている』というご主人様的意識。
『儲けさせていただいておりますので、何なりとお申し付けください』という奴隷的意識。
ただ、この立場は生活の中でどちらも経験します。
日本人の場合働いている時間が長いので、奴隷的意識にならなければならない時間が、圧倒的に多いでしょう。人間誰しも隷従することは、いい気分ではありません。無茶なことを言う相手にさえ、謝ってご機嫌をとらなければならないのですから、ストレスのかたまりになってしまいます。今度は自分がお客の立場になったときは、そのストレスを晴らしたくなるのも無理からぬことです。
二度目の夫が借金癖が直らず、私も家計の足しにと洋服の寸法直しの内職をしていた時期があります。
直した寸法が合っていないと子供服の店から苦情が入り、私がそれの対応に出向いたときのことです。その店は有名ブランドの商品を扱う店で、私も一度子供服を買いに行ったことがある店でした。私が店に入って寸法直しの件で来たとわかったとたん、顔の表情はがらりと変わりました。
こちらが「寸法直し」という品の売り手で、あちらが「買い手」のお客様なのです。結局寸法を書き間違ったのはあちらで、私に何の責任もなかったわけですが、「買い手」の傲慢な姿勢は最後まで続き、非常に気分が悪かったのを、今でも覚えています。
以前に私が子供服を買いに行ったときに対応した人と同じ人だったのです(もちろん相手は私のことを覚えていませんでした)が、同じ人が、立場が変わるだけで、これほどの豹変をするのかと、その頃の自分の境遇の惨めさも加わり、その内職はそのことを機会にやめることにしました。

フィンランドでは、どのような場面でもお客様相手にへりくだった対応と言うのは、全くありません。一見無愛想に見えるけれど、どの人たちも本当に優しく親切です。
売り手と買い手に上下関係はありません。対等の関係が成り立っています。
だから、フィンランド人には本当の意味の優しさを感じますが、日本でどんなに歯の浮くようなお愛想を言われても、「儲けるため」が見え見えで、優しさを感じたことはありません。
これは当たり前のことだと思いますが、いつから日本はこの上下関係に疑問も持たなくなってしまったのでしょうか。

「お客様は神様です」と言った歌手のせいだけではないと思うのですが・・・
フィンランドで暮らし始めてはや10ヶ月。
日本で当たり前であったことが、奇妙に見えて仕方がない自分の変化を感じます。

広告

重荷の正体3

しばらく投稿していなかったのに、
なぜか昨日はずいぶん、アクセスがあったようです。
前回の続きですが、「なさぬ仲」の間に入って、悪戦苦闘の日々が私にとっては一番つらい時期でしたが、当時の私としては「子供のためにやっている」という思いでやっているのだと信じて疑いませんでした。だから、こんなにやっているのにどうしてうまくいかないのかという恨みがましい思いを子供にもパートナーにも発していたのだと思います。
でも、結局、今考えてみれば、それは「子供のため」ではなかったと、確信できます。
ここで大きく影響するのが、それぞれの人が知らない間に信じ込んでしまっている『概念』と言うものです。
それは、一番の影響は母親からきているものですが、家族や世間からも刷り込まれています。
もちろん何気なく見ているテレビからも、今、吸っている空気からも・・・
そしてその内容は、個人の体験や記憶はもちろんのこと、その国の歴史や、民族の風習からも
影響を受けているもののようです。輪廻転生があるとすれば、過去生のトラウマも含まれていることでしょう。
日本とは7500kmも離れている、フィンランドでは離婚についても、再婚についても、なさぬ仲についても、確かに日本とは全く違う『概念』が存在しています。
この国にはこの国独特の歴史があり、その中から獲得した生き方や知恵が、現在のフィンランドを構成している要素です。
離婚が多いということは、当然なさぬ仲も多いわけですが、私が背負ってきたような重荷をこの国の人たちは感じていないように思えるのです。
家族構成もさまざまで、まだまだ言葉が通じない私にとっては、どういう関係なんだろうと頭の中が「?」マークになることもたびたびです。でも、国が違っても同じ人間同士。
ではこれはこうあるべきだとか、正しいとか間違っているとかと言う『概念』の正体はなんなんだと言うことになります。
そこで私が出した結論は、私の重荷は私の概念が作り出した『幻』だったということです。
でも、この無意識というものの中には、自分でも気がつかないやっかいな『概念』が存在しているのです。気がついているものも厄介ですが、気がついていないものは手のつけようがないので、もっともっとやっかいです。
私の中にも、まだまだ表面意識に現れない、根拠のない『概念』がたくさんあるのでしょう。それが苦しみの正体なのではないかと、感じ始めているこのごろです。

重荷の正体 2

私はお酒はあまり好きではありません。
両親は全くお酒を飲まなかったので、お酒に酔った人を見るのはとても恐いことのように思っていました。
体質としては私はお酒を飲んでも少し話したりするペースが落ちるくらいで、割と強いほうなのですが、私は自分にとても規制をしていると無意識に感じていましたから、お酒に酔って何かとんでもないことを言ったりしたら、うそが(といってうそをついているつもりはないのですが)全部ばれてしまう、という恐さもあって、自分がわからなくなるほど酔ったことは今まで一度もありません。
あれは確か8年位前のことです。
兵庫県の山の中で半自給自足の生活をしているとき、知人からいただいた焼酎を、1本(1000ml)飲み干したことがありました。それでも、そんなに酔っているとは思っていませんでした。でもその時、私は口走ったのです。
「いつもあの子たち二人(息子二人のこと)を私一人の肩に乗せて、生きてきたんだよ。どんなに重かったと思ってるのよ。なのに、あの子たちは私のことを嫌い、嫌いと言って、… まったく!!」
そう言って泣き出したのです。
私は自分の言葉に自分で驚きました。
そんなことを自分が思っているとは夢にも思わなかったのです。私は二度の離婚暦があるので、息子と父親に血のつながりがない「なさぬ仲」をたびたび経験してきているのです。そしてその体験から私が選んだのは、そのときの夫が私の子供を好きになってくれるこが、私と私の子供の安全につながるということでした。
子供が私より夫を好きになって欲しい、私のことを嫌いと言ってもかまわない、と思ってきました。
その私の心の中に、子供に対してそんな恨みがましい心があったことに驚いたのです。
久しぶりに今朝、そのときのことを思い出しました。
そして、安全のために、一生懸命無駄な努力をしていた私が、とてもかわいそうになり涙が出そうになりました。
人は幻の恐怖におびえ、自分を押し殺し、苦しい思いをしているんだなと改めて思いました。
続く

写真はオウルから森の家への帰り道、二重にかかった虹が見えました。
20110916_2150809