「せねばならぬ」の荷物

 二度の離婚についても、初めてのフィンランド一人旅についても、
私の人生をこのように改めて書いてみて、私というものを見つめてみると、
なんと肩に力のはいった行き方をしていたのだろうと、思います。

10年位前から、私の中に疑問がありました。
現在のパートナーは、「何かに気づくたびに、生きることが楽になる」と言っていました。
それに対して、私は、「何かに気づくたびに、生きることがしんどくなる」と思ってきました。
これは大きな違いです。
この「何かに気づく」と言うのは、たとえば「フィンランドを見てみたい」と思った。
彼は行けばいいという。でも、私は「恐い」⇒「見たいと思ったのに恐いと言って、行くのをやめてはいけない」⇒「恐いを振り払って、行かなければならない」
というふうに「潔く生きる」ためには、「恐い」とひるむことは私にとっては「卑怯なこと」になるのです。
でも、「行かなければならない」になったときは、「見てみたい」というあのわくわくした好奇心はどこかに消えてしまっているのです。
正しく生きるためには、「こうしなければ」「ああしなければ」と、『せねばならぬ』の荷物ばかりが肩にのしかかって、私はどんどん息苦しくなりました。
でも、その息苦しいさえ、「言ってはならない」になりました。
自分でも気づかぬうちに、その荷物は膨れ上がり、自分の本当の願望や、喜びを感じられなくなっていたようです。

私の父は「仏さんのような人」と言われるほど、穏やかで、働き者で、博識があり、控えめで… と言うような人でした。
その反対に母は、まったくひどくわがままな人でした。
わたしはどこかで、人間と言うものはいつも自粛し、規制していないと母のようになってしまうという概念を、自分自身にしっかり植え込んでいたようです。

続く

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